MUSIC CIRCLE ナナイロ2022年9月25日読了時間: 5分百人一首かるた序歌百人一首かるた序歌「なにわづに」の歌の意味とは?文法解説 – 難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花┃王仁 なにはづに咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花 小倉百人一首かるたから、序歌に定められている王仁(わに)の和歌に現代語訳をつけて、古文単語の意味や、助詞および助動詞の文法知識について解説しました。 競技かるたの序歌とは 競技かるたのルールでは、競技がはじまる前に、百人一首とまったく関係のない和歌を一首だけ読みあげる決まりになっています。それが「なにわづに」から始まる和歌です。 『岩波 古語辞典 補訂版』は、「難波津(なにはづ)」の項目に次のように書いています。 幼児が手習の初めに学んだ歌。すなわち王仁(わに)が仁徳天皇(にんとくてんのう)に奉(たてまつ)ったと伝えられる古今集(こきんしゅう)仮名序(かなじょ)の「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の歌をいう。 「まだ―をだにはかばかしう〔書キ〕続け侍らざめれば」〈源氏若紫〉 ▽この歌はその一部が法隆寺(ほうりゅうじ)五重塔(ごじゅうのとう)の内部から万葉仮名で書いたものが発見されたので、奈良時代のものといえる。 王仁(わに) この歌の作者とされる王仁とは、百済(くだら)からやってきた渡来人で、日本に『論語』(ろんご)と『千字文』(せんじもん)を伝えた人物です。 『古今和歌集』仮名序 『古今和歌集』は最初の勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)で、905年に醍醐天皇(だいごてんのう)の命令によって成立しました。仮名序はその序文で、紀貫之(きのつらゆき)が書きました。漢文ではなく仮名で書いたので仮名序と言います(漢文で書かれた真名序もあります)。 手習(てならい) 手習とは習字のことで、習字を始めたばかりの子どもが、字の練習として「難波津」の歌を使うということです。上の『岩波 古語辞典』には、例として『源氏物語』の若紫(わかむらさき)の巻があげられています。この場面は、「紫の君(紫の上)を手元に引き取りたい」と書いてよこした源氏の手紙に、紫の上の祖母である尼君が、「この子はまだ幼いので、難波津の和歌さえまともに書き続けられないので」といって、源氏に断りの返事を書くところです。 『源氏物語』が紫式部(むらさきしきぶ)によって書かれたのが、西暦1000年ごろなので、奈良時代から平安時代にかけて、「難波津」の歌が手習の歌として広く知られていたことがうかがえます。 また、難波津の歌は『和漢朗詠集』(わかんろうえいしゅう)にも入っています。『和漢朗詠集』は、和歌や漢詩文を集めた詩集で、藤原公任(ふじわらのきんとう)(966~1041年)によってつくられました。後世、漢文を勉強する初心者用のテキスト、幼学書(ようがくしょ)の一つとして広く親しまれました。 このように、「難波津」の歌は、『古今和歌集』の仮名序や『源氏物語』に手習の歌としてあげられたことや、『和漢朗詠集』に採録されたことなどを背景として、学問を始めて間もない初学者が最初に親しむ和歌の一つとして認識されていったと考えられます。 競技かるたの序歌に定められた経緯は明らかではありませんが、競技を「だれもが知っている和歌」からスタートさせることにより、競技会場の雰囲気や競技者の心情などを、和歌を扱う競技にふさわしいものに変えていくねらいがあるのではないでしょうか。 それでは、『古今和歌集』の仮名序から、「難波津」の歌の内容を見ていきましょう。 本文【古今和歌集・仮名序】 難波津の歌は、帝の御初め也。〈※古注 大鷦鷯帝(おほささきのみかど)の、難波津にて、親王(みこ)と聞えける時、東宮を、互ひに譲りて、位に即き給はで、三年(みとせ)に成りにければ、王仁(わに)と言ふ人の、訝(いぶか)り思て、詠みて、奉りける歌なり。この花は、梅の花を言ふなるべし。 〉(中略)大鷦鷯の帝を、そへ奉れる歌。 難波津に咲くやこの花冬籠り今は春べと咲くやこの花 ※本文引用は『新日本古典文学大系 古今和歌集』(小島憲之・新井栄蔵、岩波書店、1989年、6ページ)です。古注(古い注釈)は〈〉でくくって「※古注」と記しました。 現代語訳(歌意)・文法解説 難波津の歌は、天皇が最初につくった31字の歌である。〈 仁徳(にんとく)天皇が、都である難波の高津宮(たかつのみや)で、まだ親王であった時、皇太子の位を、莬道稚郎子(うぢのわきいらつこ)とたがいに帝位をゆずりあって、即位なさらず、3年間、帝位が空白だったので、王仁という人が、気がかりに思って、よんで、差しあげた歌である。「この花」は、梅の花のことを言うのであろう。 〉(中略)仁徳天皇にことよせ申しあげた歌。 難波の浜に咲いた梅の花、冬ごもりをしていたけれど、「今は春だ」とばかりに咲いている梅の花であるよ 百人一首の序歌:難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花 ※「や」は間投助詞です。助詞の解説は「古典の助詞の覚え方」をご覧ください。 語釈(言葉の意味) 難波津 仁徳天皇が都を置き、高津宮といった。(『新日本古典文学大系 古今和歌集』小島憲之・新井栄蔵、岩波書店、1989年、6ページ) 補足:難波 ※難波はいまの大阪市にあります。 難波津・難波(いまの大阪府) この花 「木の花」(梅)と「此の花」の意を掛ける。仁徳天皇によそえる。(『新編日本古典文学全集 和漢朗詠集』菅野禮行、1999年、小学館、347ページ) 冬ごもり 二〘名〙 《万葉時代はフユコモリと清音か》 ①冬の寒い間じっととじこもって、活動を停止していること。「国見する筑羽(つくは)の山を―時じき時と見ずて行かば」〈万三八二〉 ②〔枕詞〕「春」にかかる。かかり方未詳。「―春さり来れば」〈万一六〉 (『岩波 古語辞典 補訂版』大野晋・佐竹昭広・前田金五郎 編集、岩波書店、1990年) 春べ 《ベはユフベのベと同じ。辺・方の意》 春のころ。「鶯の来鳴く―は」〈万一〇五三〉 (『岩波 古語辞典 補訂版』)
百人一首かるた序歌「なにわづに」の歌の意味とは?文法解説 – 難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花┃王仁 なにはづに咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花 小倉百人一首かるたから、序歌に定められている王仁(わに)の和歌に現代語訳をつけて、古文単語の意味や、助詞および助動詞の文法知識について解説しました。 競技かるたの序歌とは 競技かるたのルールでは、競技がはじまる前に、百人一首とまったく関係のない和歌を一首だけ読みあげる決まりになっています。それが「なにわづに」から始まる和歌です。 『岩波 古語辞典 補訂版』は、「難波津(なにはづ)」の項目に次のように書いています。 幼児が手習の初めに学んだ歌。すなわち王仁(わに)が仁徳天皇(にんとくてんのう)に奉(たてまつ)ったと伝えられる古今集(こきんしゅう)仮名序(かなじょ)の「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の歌をいう。 「まだ―をだにはかばかしう〔書キ〕続け侍らざめれば」〈源氏若紫〉 ▽この歌はその一部が法隆寺(ほうりゅうじ)五重塔(ごじゅうのとう)の内部から万葉仮名で書いたものが発見されたので、奈良時代のものといえる。 王仁(わに) この歌の作者とされる王仁とは、百済(くだら)からやってきた渡来人で、日本に『論語』(ろんご)と『千字文』(せんじもん)を伝えた人物です。 『古今和歌集』仮名序 『古今和歌集』は最初の勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)で、905年に醍醐天皇(だいごてんのう)の命令によって成立しました。仮名序はその序文で、紀貫之(きのつらゆき)が書きました。漢文ではなく仮名で書いたので仮名序と言います(漢文で書かれた真名序もあります)。 手習(てならい) 手習とは習字のことで、習字を始めたばかりの子どもが、字の練習として「難波津」の歌を使うということです。上の『岩波 古語辞典』には、例として『源氏物語』の若紫(わかむらさき)の巻があげられています。この場面は、「紫の君(紫の上)を手元に引き取りたい」と書いてよこした源氏の手紙に、紫の上の祖母である尼君が、「この子はまだ幼いので、難波津の和歌さえまともに書き続けられないので」といって、源氏に断りの返事を書くところです。 『源氏物語』が紫式部(むらさきしきぶ)によって書かれたのが、西暦1000年ごろなので、奈良時代から平安時代にかけて、「難波津」の歌が手習の歌として広く知られていたことがうかがえます。 また、難波津の歌は『和漢朗詠集』(わかんろうえいしゅう)にも入っています。『和漢朗詠集』は、和歌や漢詩文を集めた詩集で、藤原公任(ふじわらのきんとう)(966~1041年)によってつくられました。後世、漢文を勉強する初心者用のテキスト、幼学書(ようがくしょ)の一つとして広く親しまれました。 このように、「難波津」の歌は、『古今和歌集』の仮名序や『源氏物語』に手習の歌としてあげられたことや、『和漢朗詠集』に採録されたことなどを背景として、学問を始めて間もない初学者が最初に親しむ和歌の一つとして認識されていったと考えられます。 競技かるたの序歌に定められた経緯は明らかではありませんが、競技を「だれもが知っている和歌」からスタートさせることにより、競技会場の雰囲気や競技者の心情などを、和歌を扱う競技にふさわしいものに変えていくねらいがあるのではないでしょうか。 それでは、『古今和歌集』の仮名序から、「難波津」の歌の内容を見ていきましょう。 本文【古今和歌集・仮名序】 難波津の歌は、帝の御初め也。〈※古注 大鷦鷯帝(おほささきのみかど)の、難波津にて、親王(みこ)と聞えける時、東宮を、互ひに譲りて、位に即き給はで、三年(みとせ)に成りにければ、王仁(わに)と言ふ人の、訝(いぶか)り思て、詠みて、奉りける歌なり。この花は、梅の花を言ふなるべし。 〉(中略)大鷦鷯の帝を、そへ奉れる歌。 難波津に咲くやこの花冬籠り今は春べと咲くやこの花 ※本文引用は『新日本古典文学大系 古今和歌集』(小島憲之・新井栄蔵、岩波書店、1989年、6ページ)です。古注(古い注釈)は〈〉でくくって「※古注」と記しました。 現代語訳(歌意)・文法解説 難波津の歌は、天皇が最初につくった31字の歌である。〈 仁徳(にんとく)天皇が、都である難波の高津宮(たかつのみや)で、まだ親王であった時、皇太子の位を、莬道稚郎子(うぢのわきいらつこ)とたがいに帝位をゆずりあって、即位なさらず、3年間、帝位が空白だったので、王仁という人が、気がかりに思って、よんで、差しあげた歌である。「この花」は、梅の花のことを言うのであろう。 〉(中略)仁徳天皇にことよせ申しあげた歌。 難波の浜に咲いた梅の花、冬ごもりをしていたけれど、「今は春だ」とばかりに咲いている梅の花であるよ 百人一首の序歌:難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花 ※「や」は間投助詞です。助詞の解説は「古典の助詞の覚え方」をご覧ください。 語釈(言葉の意味) 難波津 仁徳天皇が都を置き、高津宮といった。(『新日本古典文学大系 古今和歌集』小島憲之・新井栄蔵、岩波書店、1989年、6ページ) 補足:難波 ※難波はいまの大阪市にあります。 難波津・難波(いまの大阪府) この花 「木の花」(梅)と「此の花」の意を掛ける。仁徳天皇によそえる。(『新編日本古典文学全集 和漢朗詠集』菅野禮行、1999年、小学館、347ページ) 冬ごもり 二〘名〙 《万葉時代はフユコモリと清音か》 ①冬の寒い間じっととじこもって、活動を停止していること。「国見する筑羽(つくは)の山を―時じき時と見ずて行かば」〈万三八二〉 ②〔枕詞〕「春」にかかる。かかり方未詳。「―春さり来れば」〈万一六〉 (『岩波 古語辞典 補訂版』大野晋・佐竹昭広・前田金五郎 編集、岩波書店、1990年) 春べ 《ベはユフベのベと同じ。辺・方の意》 春のころ。「鶯の来鳴く―は」〈万一〇五三〉 (『岩波 古語辞典 補訂版』)
Comentários